Kuitanの頭の整理場

触れた物語の感想とか、考えたことをあげていきます。

君が望む永遠をプレイした感想と頭の整理場

1.初めに

君が望む永遠の遙ルートと水月ルートをプレイし終わりました。

前からこのゲームがすごいという噂は聞き及んでいましたが、なかなかプレイする機会がなく、âge20thBOXを購入し、ようやくプレイすることが叶いました。鬱ゲーかつ泣きゲーと聞いていて、泣く覚悟は出来ていて、実際感動で泣いてしまいましたが、それ以上に深く考え込んでしまい人生で初めてブログを書いて考えをまとめることにしました。拙い文章ですが、どうぞ最後まで読んでいただけるとありがたいです。

 

2.感想

最初は数十日かけて少しづつプレイするつもりだったのですが、あまりの面白さにどうしても手を止めることが出来ず、徹夜で約3日間かけてメイン2ルートを終わらせてしまいました。今考えるとすごく勿体なく感じます。マブラヴもそうでしたがBGMが凄く良く、徹夜の興奮も相まってものすごく君望の世界に没入してプレイすることが出来ました。Rumbling hearts君が望む永遠を聞く度に鳥肌が立つようになってしまいました。間違いなく君望は人生で経験した物語(とはいってもまだまだ少ないですが)で最も感動した物語の1つだと思います。

3.君望から感じたリアリティ

 君望をやっていて1番感じたところは登場人物、特にあの丘で写真を撮った4人組がとても人間臭く感じた事でした。それはあくまで思いつきでしたが、その原因を自分なりに考えていったところ、1つの結論に辿り着きました。

 

創作物、特に最近のアニメでは登場人物に属性がある程度決められていることが多いです。例えばこの子は真面目な子だとか、お調子者だとか。創作物に限らず、現実世界でも私たちはこの子はこういう性格だとか、ある程度その子を簡略化した要素を頭に入れてコミュニケーションを取っているのではないでしょうか。

 

もし、創作物の中でお調子者の人間が真面目な態度をとったら、何かしら事件がつきものです。大体の場合それで1つの話が出来上がってしまいます。しかし、現実世界ではどうでしょうか。お調子者だと思ってた人が例えば自分の知らないところでは真面目だったとしても、自分から見えてなければ関係ないですし、自分に真面目な態度をとってきて、少しそれを奇妙だと感じても、実際は大したことがなかったりすることが殆どです。

 

君望では、創作物であるのにそういった部分が上手く表現されているのではないかと思います。普通に創作物の中でそれをやってしまうとキャラがぶれただけのように思えてしまいます。しかし、君望の世界では常にバックに「遙の事故と目覚めと時の経過による変化」という事件があるため、そういった登場人物達のキャラのぶれ(あえてそういう表現をさせてもらいます)がとても人間らしさを感じさせるのではないかと思います。実際現実世界でも何かしらの事件で他人が思いもよらぬ行動をとることもありますし、自分も自分でもわかっていなかった性格を自覚することがありますよね。君望ではまるでそれぞれが意志を持って行動しているかのような行動が多く見られます。主人公の知らないところで色々動いてたりなどです。人間はその性格の型にハマった行動ばかりとるわけではない、そういう難しい部分を上手く表現できているところが君望の登場人物を人間臭く感じさせるところなのではと考えました。

 

4.全員が被害者?

 君望をプレイしていてハッとしたのは誰も(プレイしている自分を含めて)轢いた人間を悪いと考えない所です。それは遙ルートの水月が東京に出た時に元部活仲間に言われて初めて気が付きました。確かに、普通に考えれば1番悪いのは轢いた人間であり、他は全員被害者であるのに、何故誰も轢いた人間を責めないのか。災害と違い、遙の事故は明確に加害者がいます。もちろん遙を狙っての事故ではないが、間違いなく恨まれてもおかしくないです。しかし、香月先生も言っていた通り、孝之は少なくとも加害者への恨みという動機で遙を見舞っていた訳では無いし、他の人間もそうでした。それはなぜなのでしょうか、考えても明確な答えが出ませんが、そこが、孝之達の性格を表しているのかもしれません。香月先生は「極端」と言っていましたが、口で「加害者が悪い」というのは違うにしても、心の中で加害者のせいにして楽になることは出来たと思います。しかし、それをしなかったのは彼らの根底にある優しさ故に自分で自分を罰する性格からなのかもしれません。遙が眠っていた3年間は加害者のせいに出来る部分が大きかったとしても、目覚めてからは加害者のせいに出来る部分が少ないのも事実です。なぜなら遙の時間が止まっているのは加害者のせいにしろ、孝之達の感情の変化は、彼ら自身の問題であり、そこを孝之達は理解していたのではないかと思います。勿論それすらも加害者のせいにしようと思いばできると思いますが、加害者のせいにしても何も進まないことを何となく理解出来たが故に苦しんだのだと思います。そうやって思った事が良かったのかは分かりません。しかし、加害者のせいにしない事こそが、彼らの性格や問題点を端に表しているのではないかと思うのです。

 

5.物語の焦点はどこか

君望のメイン2ルートを3章まで完走しきった時、ものすごい感動と共にものすごいモヤモヤとしたものが心に残りました。それは私が物語を読んだ時などにはよくあって、それを自分なりに噛み砕くことが楽しみだったりします。しかし、君望はいくら頑張っても上手くまとめることができません。なぜ上手くまとめられないのかを考えました。

 

あまり他作品と比較することは良くない事だと思いますが、自分の中でそういうテーマを持った泣きゲーといえばKey作品を思い出します(浅くてごめんなさい)。Keyも何かしらのテーマを持った作品だと私は考えていますが、君望とKey作品の違いは何か、私は「答え」があるか否かだと思います。AIRを比較対象として出させて頂きます。AIRに限らずKey作品はファンタジーが多く、君望と単純に比較することは難しいだろうと考える人も多いかと思いますが、今回はあくまで教訓性をもった作品として比較させて頂きます。

 

AIRをプレイした時私はこれがハッピーエンドか否かをとても悩みました。(ここはまたブログにまとめられたらと思います)しかし、AIRは「マブラヴ オルタネイティヴ」のラストのようにこれがハッピーエンドかどうかを悩ませるような作品ではなく、これがハッピーエンドであると捉える事がこの物語の根幹なのでしょうであり、麻枝さんの伝えたいことなのではないかと思います。AIRをプレイされた方々ならわかると思いますが、もっと救いはなかったのかと感じるほど物悲しい話です。しかし観鈴は自分の「母親」を救い、さらに過去の因縁までも救う事ができた。だからこれはハッピーエンドだ。それが最も大事な部分であると思うのです。これは智代アフター等も同じ事が言えます。他のKey作品にも言えますが、あの作品達は答えが明確にあった上で、問題提起をし、麻枝さんが考えた答えに向かって進んでいく物語であるといえます。

 

対して、君望はどうでしょうか。君望は皆が優しく、お互いを気遣うが故にさらにお互いが傷ついていく、負のスパイラルに陥ってしまいました。誰が悪い訳でもないし、間違いなく全員被害者。なのに自分に責任を感じ、贖罪のための行動でさらに自分も含め傷ついていく。見ていてとても辛かったです。2人のルートのどちらも、ハッピーエンドと言えたでしょうか。確かに、それなりに孝之はくっついた方と幸せになり、もう片方もそれなりに幸せ。それをハッピーエンドだと捉えられる事がこの物語の根幹なのでしょうか、私は違うと考えます。

なぜなら、彼らの行動は正しくなく、最良の選択ではないと香月先生が言っているからです。彼らは間違いなく今自分達が考えられる最高の行動をとってきてその結果お互いに傷ついてきた、それを香月先生は若さ故の間違いだと言っているのです。「極端」という言葉を香月先生は用いていましたが、彼らの行動はいわば若くて経験がない故の行動ばかりであり、大人である香月先生からみれば間違いである行動ばかりだったのだろうと思います。

 

では、この物語は間違え続けた人間達の不幸な話というのが根幹なのでしょうか。それも違うと私は思います。なぜなら、香月先生は「若いうちに悩むのはいいこと」とも言っているからです。彼らは間違っていたとしても自分達なりに悩み、もがき苦しんだ事で、数年後あの丘で当時の出来事を笑いながら話せるようになると言うことだと思います。もし、ここで悩むことを放棄してしまっていた場合その「数年後」というのは永遠に来なかったのかもしれません。

 Key作品を最初から結論を見据えたうえで、そこに導くための物語だとするならば、君望はそういった答えのない問いを私達にそのままぶん投げてくる物語なのかもしれません。

 

私ではいくら考えても孝之達がとった行動以外にどうすれば良いのかも分かりませんし、そもそもこの物語の解釈が今まで書いた通りなのかも分かりません。ここからの解釈は完全に自分の意見になってしまいますが、若いうちに悩み続ければ、時が経てば過去にあったことも笑って話せるようになるというのは、単に時が経てば大人になって笑い飛ばせるようになるということでは無いのではないかと思います。

 

当時考えていた事を数年後考えたら違うというのはよくある話だと思います。しかし、それは単に「成長」しただけなのでしょうか。それはあくまで時が経って色んな経験をしたがために起きた「変化」なのではないでしょうか。経験を多く積めば正しい判断ができると安直に考えることは少し危険なのではと私は思うのです。若いうちに悩むことで、その時の最適解を導き出し、それを数年後もう一度考えて当時との違いを認識し、それを笑う事が出来る、そこまで行って初めて人として「成長」できたと言えるのではと思います。香月先生はそういう意味で「若いうちに悩むのは悪いことではない」と言ったのではないかと思います。

 

あの4人が数年後丘でどういう話をしたのかは明確に分かりません。しかし、彼らは当時の感情をただ、懐かしいだとか、若さ故の暴走だ等といって笑い飛ばしたのではなく、当時の感情を覚えていて、その上でこういう行動を取った方が良かったなとか、そういう違いを認識し、お互いにそういう部分があった事を認識して、ようやくあの丘で笑い合うことが出来たのではないかなと思います。

6.終わりに

まだ酒も飲めないような子供である私が、拙い文章でこうやって感想を書き起こしているのは、また数年後君望を改めてプレイした時にふとこのブログの存在を思い出し、過去の自分との感じた事の違いに自分の変化を感じとり笑えたらと思うからです。自分はこの作品の伝えたいことのほんの1%にも満たない量しか理解出来ていないのではと思います。なのでこれから何十年かかって読み解いていきたいです。

 

読みづらい文章に付き合って頂いてありがとうございました。このような事を考える機会を頂いて、âgeのスタッフの皆さんには感謝しかありません。本当に素晴らしい作品をありがとうございました。